鯨波の戦い(鯨波戦争)

同夜は雨だった。
雷神隊隊長の立見・神風隊隊長の町田・致人隊副隊長の馬場の3人は案内人を立て、近くの山で偵察をしていた。敵が前進してくる様子もなく、27日の朝を迎える。
しかし午前四時頃、鯨波方面で銃声が聞こえた。3人は慌てて下山し、味方の陣にたどり着いた。鯨波戦争の開始である。
初めに応戦したのは致人隊の半隊で、鯨波入口にて薩長軍と交戦した。しかし人数的に不利で後退。雷神隊と浮撃隊と共に小河内山・嫁入坂に防御線を引き、山上から攻撃した。ここに致人隊の半隊も合流した。山の下は水田地帯で足場は悪く、官軍は悪戦苦闘。しかし夕刻になると東軍は番神堂まで退き、官軍は東の輪まで前進してきた。だが将兵の疲労がピークに達したため後退した。
 山道軍は途中、千手村で兵を二分。岩村の本隊は小千谷に向かい、もう一隊は小出島に向かった。小出島は会津藩領であり、越後と会津の境とも言える六十里越へと達するための重要地である。魚沼軍奉行・町野主水もここにいた。本隊は27日衝鋒隊副隊長・今井信郎率いる一隊らと雪峠にて戦闘、撃破。もう一隊も小出島で戦闘。東軍は小出島には正規兵がおらず、井深沢右衛門率いる会津隊(遊撃隊)も浪人の集まりであったため統制がうまくいかず敗れ、六十里越を越え会津領の叶津へと向かった。
 さて、山県有朋は京都への書簡の中で、加賀藩兵の狼狽を吐露している。当時の鉄砲は反動が大きく、夕方になると疲労困憊の加賀藩兵は発砲と同時に気絶した。これを後方に運んで水をかけるなどして復帰させたという。おまけに味方の長州藩兵を誤射する始末。加賀藩の戦意の低さに山県は呆れた。
鯨波戦争は東軍のやや優勢というかたちで終了した。
しかし同夜には雪峠や小出島の敗報が柏崎にもたらされ、桑名藩士らは戦意喪失した。背後を取られることも懸念し、また友軍から後退すべきとの通告も受けたため、桑名は刈羽郡妙法寺村方面へ、水戸藩脱兵は宮川と退却した。
鯨波戦争での戦傷者は、官軍側が長州藩戦死2人負傷7人、高田藩戦死3人負傷8人、加賀藩戦死3人負傷24人なのに対し、東軍は小出冬次郎・駒木根元市・平野吉二郎(28日半田村の病院にて死亡)・三宅厚(5月1日妙法寺村にて死亡)の4人が戦死、負傷者は6人(松浦秀八、梅林善次、相馬由右衛門、佐藤利助、西条重蔵、石井勇次郎)であった。
また脱走が1人おり、記録には雷神隊の余語代吉とある。鯨波で雷神隊の一人が重傷を負い、介錯人もなく切腹したという目撃談があるが、余語のことであろうか。しかし、大鳥軍をいち早く脱し柏崎へ急行した彼の最期が、重傷で味方に続けなくなって切腹したのにも関わらず、記録上『脱走』となってしまったことに非常に心が痛む。
また29日には水戸脱藩兵や浪人が柏崎で暴れ回り、官軍がこれを制圧した。この暴動では一般人も巻き込まれ、7人が死亡、6人が負傷している。

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