桑名藩士、柏崎へ

こうして桑名城は無抵抗開城されたが、藩内には恭順に絶対反対の者もいた。
家老涌井孫八郎らが必死に説得にあたったが、少数は脱走し江戸へと向かった。 江戸に在中の定敬は、徹底して抗戦を訴え、江戸深川の藩邸には600人の藩士が気勢をあげていた。
しかし官軍側との和平解決も視野にあった慶喜は、2月頃から松平兄弟との面会を避けるようになり、ついには容保には帰国命令を、自藩を奪われた定敬には謹慎を命じる。この頃になると、藩邸内の藩士にも恭順派が増えてきた。城は官軍が入城し、万之助や家臣は敵の手中にあるのだから、恭順派増加も必然的であろう。定敬は、とりあえず深川の霊厳寺で謹慎することにした。
3月に入り、江戸に滞在する必要もないと感じた定敬は、主戦派の山脇十左衛門・町田老之丞(立見の実兄)・馬場三九郎・高木剛次郎・中山源三郎・立見艦三郎(尚文)らと深川の富岡八幡宮などで会合を数回開き、抗戦の準備を進める。この過程で定敬は、大久保一翁に江戸を離れるよう忠告を受ける。一翁は朝幕非戦論者である。
和平交渉を勝海舟らと進め、江戸を戦火から守ったが、それは北越地方へと戦火を飛び火させる結果となってしまった。そして3月16日、定敬らは横浜からロシア船で江戸を出港した。この船には強硬派の藩士約100人が同行した。
余談であるが、同船には長岡藩家老・河井継之助も同乗していた。江戸にはまだ多くの藩士がいたのだが、彼らは定敬が奮起する前に戦場に向かってしまった。熱血で幕府に忠臣的な桑名藩士の性ゆえ、待ちきれなかったのだろう。その多くは彰義隊として上野戦争を戦い、壮絶な最期を遂げ、また大鳥圭介らの諸隊に入り奮戦した。定敬らの一行は箱根経由で3月29日に新潟へ到着し、31日来柏した。剣野山には御殿楼が用意されていたが、謹慎中ということから避け、大久保の勝願寺に謹慎した。
江戸城無血開城の翌日、宇都宮城・日光を目指す大鳥軍には、立見艦三郎が率いる桑名藩士数名や新撰組副長の土方歳三、会津藩の柿沢勇記などが合流し、総勢2000人の大部隊になった。軍は三隊に分けられ、桑名藩士は、伝習第一大隊や新撰組らと先鋒を担うことになった。
この時すでに宇都宮城は官軍の手中にあり、その先には、徳川家康が奉られている日光東照宮があった。旧幕府軍は、祖が眠る日光東照宮を官軍に渡さぬよう宇都宮城の奪還を目指す。宇都宮城攻略では、桑名藩士は大鳥圭介の伝習隊と共に行動し、進んで最前線で戦った。
ここまでの過程で小林権六郎ら5人が勇ましく戦死。特に小林は、桑名城無抵抗開城の日に国元を脱走し、定敬らを追って江戸まで駆けつけた、桑名に誠忠深い武士であった。同城は4月19日に奪還。翌日に行なわれた祝宴において大鳥は、先鋒軍の先頭で活躍した桑名藩兵へ、真っ先に杯を与えたと言う。しかしその後、同城は官軍に再奪取されてしまう。
 官軍による宇都宮城奪還の前後、桑名藩は藩主や同志が越後柏崎に存命であることを知り、馬場良介・町田鎌五郎・松浦秀八らを中心に柏崎へ向かうかどうか議論を行なった。
議論は柏崎へ向かうことで一致。大鳥に柏崎へ向かいたいことを明かす。しかし大鳥は「今桑名藩が抜けてしまうと、軍の士気も下がり、瓦解してしまう」と難色を示したため、「それぞれの意思に任せる」ことになった。その結果、余語代吉ら数名は柏崎へ急行した。その他の藩士も今市まで軍に同行したが、再び議論が沸騰し、4月29日桑名藩約80名全員が、会津若松を経由して柏崎へ向かうことに決定した。
その道中の閏4月4日、一行は柏崎の状況を記した書状に遭遇する。その書状は、柏崎(の桑名藩士)は未だ抗戦か恭順かが決定しないが、我々は君名により会津・長岡藩と共に闘う覚悟だという、柏崎在中の桑名藩士・山脇十左衛門の書状だった。定敬ら抗戦派が何か事件を起こしそうな文面である。
慌てた立見鑑三郎・町田老之丞・松浦秀八・馬場三九郎・大平九左衛門・河合□三郎ら隊長は、残りの藩兵を田副嘉太夫にまかせ柏崎へ急行した。一行は6日に会津若松城下に到着。
ここには定敬の命令で来ていた山脇十左衛門がおり、一行はここで柏崎の情勢や隊長が急行した理由を知ることとなった。その後一行は津川(新潟県東蒲原郡。古くは会津藩領)で小舟を購入し、阿賀川(新潟に入ると「阿賀野川」と名称が変わる)を下り新潟に出た。
隊長らは閏4月9日、他の一行は閏4月12日に到着した。来柏した藩兵は西光寺下の広場の仮営に駐屯した。柏崎陣屋には数十名の藩士が妻子と共に在住していたため、桑名の総勢は約360名となった。数は少ないが、数々の戦闘を戦い抜いたベテランの集まりである。

サイトMENU

Copyright (C) 2007 鯨波戦争 All Rights Reserved.
ファンデーション