椎谷・赤田の戦い

東軍は敗走後、桑名藩や衝鋒隊は妙法寺村に駐屯し、大塚・赤田・曽地などに警戒兵を置いた。
また偵察の兵を吉井や与三に出した。出雲崎にいた水戸藩脱兵の諸生派は、椎谷藩に東軍への加盟を強要しようと陣屋に乗り込んだ。
しかしそこには誰もいなかったという。
その後椎谷藩は柏崎の官軍に救援を求め、官軍は妙法寺方面と椎谷方面を同時に攻撃する作戦で5月6日、戦闘を開始した。
椎谷方面は、薩摩外城四番隊や長州奇兵隊三番隊などが本道を進み、砂山の間道を薩摩十番隊と長州六番小隊が前進した。本道は包5門を擁していたため、水戸藩脱兵はたまらず後退、正午頃には椎谷を制圧した。官軍は午後には柏崎へ引き返したが、その後水戸の偵察兵が戻り、陣屋や民家に放火して逃げ去った。
一方、妙法寺方面は、軍監・三好軍太郎を中心に加賀・高田藩兵を引きつれ進軍した。
中田・与三を進んで吉井に達したところで敵の抵抗を受けた。午後になりようやく鎮圧、曽地まで占領した。続いて進軍すると、赤田には東軍が集結しており、たちまち総力戦となる。しかし剣野の守備にいた加賀兵や山本の警備にあった富山兵が応援に来たため、東軍は後退。椎谷・赤田の戦いは午後4時に官軍の勝利で終わった。

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