新政府軍、越後高田へ

官軍側の動きをみていこう。
大きな騒動もなく平穏にあった越後地方も、衝鋒隊や水戸脱藩兵さらには藩主定敬を擁する桑名藩の進出により、次第に戦乱の渦に飲み込まれていき、官軍も動かざるを得なくなった。
江戸にいた北陸道先鋒総督の高倉永吉は、新たに北陸道鎮撫総督兼会津征討総督に任じられ、参謀に黒田了介(清隆)と山県狂介(有朋)を引き連れ閏4月29日品川を出航、直江津から高田に入った。
高田ではまず両参謀の要請から、飯山の戦いにおいて衝鋒隊を越後まで追走してきた信州の諸藩兵を北陸道軍に吸収した(信州は東山道に属する)。この決定を下したのは信州諸藩を指揮していた軍監・岩村精一郎である。
後の小千谷談判を決裂させ、長岡藩との北越戦争へと発展させた男の独断であった。北陸道軍は「海道軍と山道軍に分け、長岡城を挟撃し越後を攻略する」という一般方略を設定した。実は長岡藩は、この時点ではまだ「局外中立」の立場を主張していた。それにも関わらず官軍がすでに長岡藩を敵視している点は興味深い。
山道軍は岩村が約1500名を率い、松之山口から三国街道を進んだ。海道軍は途中、柿崎で黒岩口に、鉢崎で谷根口に兵を割いた。そして閏4月26日夜、青海川まで肉薄した。兵力は薩摩藩四番隊と三番砲半隊(砲三門)、長州藩二小隊(うち一隊は報国隊。砲二門)、その他に加賀藩や高田藩もおり、その数約1000名。
かくして柏崎とその周辺に両勢力が集結した。にわかに慌ただしくなる柏崎。市街地の住民は家財道具を近郊へと運び、その慌ただしさは火事が起きたようだと伝えられている(中村篤之助『続鏡月堂日記』より)。

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