鳥羽・伏見の戦いと慶喜東走

慶應4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦いを端として、1年以上にわたる国内戦争が始まった。
鳥伏戦の序盤は優勢に進めた旧幕府軍であったが、次第に新政府軍の新式武器に圧倒し始める。しかし最も応えたのは『錦の御旗』の掲揚であろう。つまり旧幕府軍は、朝敵と見なされたのである。あれほど孝明天皇に仕えていた会津藩や桑名藩にとって、朝敵の烙印を押されたことは、精神的に相当なダメージだったに違いない。
6日、敗走先の大阪城では、慶喜が松平容保・定敬兄弟や老中板倉勝静らを集め協議を行なった。重々しい雰囲気であったが、大阪城将兵らの高ぶる士気もあり、一転決戦の空気となった。だがその夜、慶喜は松平兄弟や板倉ら計十数人だけを連れ、大阪城の後門から脱出した。門衛には「小姓(=将軍の身辺雑用人)の交替である。」と偽ったという。
幕府軍艦「開陽」で天保山(大阪府)を出港したのは8日夜(随行者いずれも海洋知識がなく「開陽」を識別できずにいた)。11日に品川沖に到着、12日未明に江戸城へ入った。これが世に言う『慶喜東走』である。
 慶喜がなぜ大阪を捨て、江戸へ帰ったのかは定かではない。この東走劇が幕臣神保修理の進言ではあったが、素直に従ったかどうか判らないし、慶喜の心境がいつ変化したのか文献も残されていないため、真相は闇の中である。
さて話を桑名藩に戻そう。
定敬に置き去りにされた桑名藩士の主力部隊約400人は、ひとまず7日夜、会津藩士や見廻組、新撰組らと共に大阪城を出、紀州和歌山から故郷を目指した。しかし「桑名城は官軍に包囲されている」という噂が流れていたため、進路を定敬のいる江戸に変更した。

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