東軍〜衝鋒隊と浮撃隊〜

ここで桑名と共に柏崎で戦った衝鋒隊と浮撃隊、水戸脱兵隊の軌跡を追ってみたい。

衝鋒隊は、幕臣・古屋作(佐久)左衛門率いる幕府脱走兵集団を言う。
衝鋒隊の元を辿ると旧幕府歩兵第十一・十二連隊に行き着く。
両隊は鳥羽・伏見戦後、他隊が解散する中、解散せず江戸に向かう。2月7日夜、十一・十二連隊は五・七・八連隊と共に宿泊先(三番兵舎。現・靖国神社)から脱走、会津に走る。しかし、この勝手すぎる行動は幕府も放置できず、古屋に引き上げを命じ、一行はひとまず羽生陣屋(旧幕直領。埼玉県羽生市)に滞在することにした。
その後処置に困った幕府は、信濃国の24万石を古屋に与える。すると古屋は直ちに信濃国旧幕直領の中之条陣屋(長野県上田市北西8キロ)に一行を向かわせ、脱兵の隊長となった。一行は梁田(栃木県足利市)で宿泊中、官軍に朝食中を襲われた。
多くの死傷者を出しながらも、一行は3月22日会津若松に到着した。この時点で隊を『衝鋒隊』と号し、越後経由で信濃国を目指した。
なぜ十一・十二連隊は江戸を出、会津を目指したのか。
これには会津藩の裏工作が背後にあったと思われる。
あらかじめ、会津藩は旧幕府歩兵第七連隊に、「鬼」とも謳われた会津藩屈指の闘将・佐川官兵衛が率いる『別選隊』から4名(佐川主殿・石黒恒松・内田衛守・江上太郎)、昌平坂学問所の学生から1名(米沢昌平)、小姓の梁瀬克吉・原直鉄の計7名を脱藩させて入隊させていた。おそらく彼らが会津へと誘導させたのだろう。少しでも兵力を増加させ、新政府に抵抗しようと試みた作戦である。
では次に、なぜ古屋は信州にこだわるのか。
古屋の頭の中には、信州にある旧幕直領を支配した上、信州や越後の諸大名を同調させ、さらにその他の左幕派と協力して徳川幕府の再建を目指すという考えがあった。さらに幕府から24万石の所領を授かったため、どうしても信州を目指す必要があったのである。
従って衝鋒隊は越後に入ると、直ちに同調交渉を始める。衝鋒隊は同調に応じないと武力による強硬手段をとることから、越後諸藩は自藩を戦火から守るため、同調した。しかし実際は表面上の契約であり、これが後に衝鋒隊をいばらの道へと陥れることになる。こうして越後諸藩との同盟交渉に一応は成功した衝鋒隊は、高田藩との交渉後針路を信州に向けた。
飯山から旧幕領地の中野(長野市北東2キロ)に向かう道中、新政府軍の襲撃に遭う。さらに飯山藩の裏切りもあり、一行は退却を余儀なくされた(飯山の戦い)。
川浦陣屋(新潟県上越市)まで引き返したが、今度は高田藩に夜襲され、衝鋒隊は四方八方へと離散してしまう。高田藩はこの行動が、新政府軍への忠誠を示すことになった。衝鋒隊は越後諸藩と同盟を結べた安堵から、油断していた感じもある。しかし、戦乱の時代であるから何が起きても(裏切りがあっても)仕方はないが、つい先日まで同盟を組んでいた諸藩に、次々と攻撃された衝鋒隊には哀れの念で胸が熱くなる。
ばらばらになっていた衝鋒隊は日を追うことに集合し、八小隊を編成するまでに至った。また武器を失った者らを刀槍隊とし、これを『浮撃隊』とした。
新政府軍の進軍が伝わると、古屋は小隊を女谷・塚ノ山・柏崎(浮撃隊も同行)・妙見に四分、派遣した。古屋自身は北条(新潟県柏崎市)で指揮をとった。

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