東軍〜水戸藩脱兵〜

鯨波戦に参加したかは不明だが、応援には来ていた水戸の脱藩兵についても触れておきたい。まず幕末の水戸藩の内情をみていきたい。

幕末の水戸藩では、藩主・徳川斉昭の下で藤田東湖と戸田銀次郎が安政の改革に取り組んでいた。二人は“両田”と呼ばれ、改革の柱として斉昭に信頼されていた。
しかし安政2年(1855)の大地震により二人は命を落としてしまう。
貴重な二人の逸材を失った水戸藩は次第に崩れ始めていく。また水戸藩は徳川家御親藩ゆえ、幕末期に中央で起こる大事件(安政の大獄・将軍継嗣問題・戊午の密勅…)の影響を直接受け、藩内の混乱は激しさを増していった。特に改革急進派(俗に言う天狗派)と門閥派の対立が深まっていく。このような時勢の中、藤田の「尊王攘夷」の遺志を継ぐべく、その孫藤田小四郎は水戸藩を脱藩。府中(茨城県石岡市)で資金集めや同志の募集を開始した。
元治元年(1864)3月27日、小四郎はまだ若かったため、当時の天狗派首領で水戸町奉行であった田丸稲之右衛門を主将として、筑波山で挙兵した(この勢力は筑波勢と呼ばれる)。
反対派の諸生派は挙兵を非難し、江戸にいた水戸藩主・徳川慶篤に働きかけ、筑波勢に同情的な武田耕雲斎を免職・謹慎させた。諸生派のリーダー格市川三左衛門は執政となり、幕府軍と共に追討に出た。しかし圧倒的有利にも関わらず追討は失敗し、市川は免職となる。
これに腹を立てた市川は強引に水戸城へ入城し、筑波勢の同調者や家族に弾圧を加えた。これには筑波勢も激怒し、市川の勢力を討つと決めた。慶篤は新たに宍戸藩主・松平頼徳を水戸城に派遣、両派の鎮撫にあたらせた(中間派や武田耕雲斎の一隊も随行した。これを大発勢と言う)。また幕府も田沼意尊(意次の子孫)を送り、筑波勢の制圧にあてた。大発勢と市川勢の交渉はすぐに決裂となり、那珂湊周辺で交戦した(那珂湊の戦い)。
数で優る市川勢に屈した武田の一隊は筑波勢と合流して脱出、大子(茨城県久慈郡大子町)に向かった。両派を鎮圧できなかった頼徳には切腹が待っていた。
両勢力は協議の結果、西上し、朝廷に我らの心情は尊王譲夷のみであることを伝えることに決定した。
総大将には武田耕雲斎が推され、約千名の大軍は中仙道を西へ向かう。しかし福井街道の今庄宿に到着した頃には、天狗党軍はすでに幕府からの追討軍に囲まれている状態であった。12月16日、武田耕雲斎以下823名は加賀藩に勧められ降伏した。翌年、武田や小四郎ら352名は郭賀来迎寺領内にて斬首され、西上の夢は終幕した。
当時17歳であった武田耕雲斎の孫・金次郎は遠島の刑に処されたが、鳥伏戦後に朝廷の許しを得た。
慶應4年4月、市川ら一派の追討令を朝廷から受け、水戸へ帰藩。市川らは3月10日会津へ逃走したが、体よく越後方面へと流された。
この市川ら水戸脱藩兵諸生派が幕府側として柏崎周辺の警備にあたったとされる。市川は渡部対馬と名を変えて越後に潜伏していたが、彼らの脱藩後の行動を記す文献は発見されておらず、戦闘に参加したのかも不明である。しかし一部の資料によると、出雲崎に滞在していたらしい。

以上の経緯で桑名藩・衝鋒隊・水戸脱藩兵諸生派は、それぞれの想いを胸に柏崎へと集結した。会津からも数隊が参加し、幕府側(東軍)は5〜600名の兵力で官軍に挑むこととなった。立見の雷神隊は婦人坂、松浦の致人隊は広野領、町田の神風隊は大河内を警備。その他松田昌次郎(会津藩士)の率いる衝鋒隊は黒岩口を、木村大作(同)の率いる浮撃隊は谷根口を守った。

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